ちょっと古いがコーダくん

異国の地でいのちを落とし、その殺害現場までさらされた人。そんなニュースを聞き、とりあえず自分以外のひとはどう考えているのか知りたくておおきい掲示板などのぞきにいった。まぁ大体似たりよったりで、殺害前は叩いていたのに、後は擁護にまわるという。
動画見てびびってしまってとか。好奇心で見たのは自分なのにねぇ。ちなみに自分は見ていない。どんな死に方をしようとも死は死でしかないから。死んでしまったという事実、それで充分な気がする。一体の骸がそこにある。それだけで…。
けれど、安らかなる死なんていうのが一番とは思うが。
憶測ではあるけれど、自分がのぞいた掲示板を見る限りそこへの書き込みをしてるひと達は若いのだと思う。身近な人との死別をまだ経験していないような。若いからといってすべてのひとに当てはまることではないけれど。
自分はここ、3年位で好きな者との別れを3回味わった。最初は飼っていた猫、つぎは父親、そのつぎは友人。何回あじわってもあの喪失感は慣れていかないものだ。そういう死とコーダくんの死とテロなどを起こして死ぬ人とテロの被害者として死ぬ人となにか違いなどあるのだろうか。自分はないのではないかと思うのだが。そこにあるのは永遠の別れ、無になるということだと思うから。今回のことは動画の件もあったりで結構身近でない人のことの割りに反響が大きかったけれど、常に誰かが死んだら誰かが悲しむかもしれないということを感じてほしいと思うのは自分だけだろうか?たとえその人が悪いことをした人でも。また自分とは考え方など相容れぬ人でも。
自分と違う人を受け入れましょうよ。共感はできぬとも。仲良くとはいかないまでもその人の存在位は認めようと。イスラム(中近東)対キリスト(欧米、特に米)を見てるとホントそう思う。
戦争に大儀なんてないと思うし、なんといっても”殺し合い”だから。自分が死んだり、誰かを殺してまで守るものってなんだ?

なんかとりとめもないことになってきたからもう寝ます。